あるところに、二人の老人がいた。
二人は、生まれ年も、住んでいる地域も近く、背格好もそっくりだった。
ただ、ひとつだけ違いがあった。
一人はどんなことにも感謝できる老人
もう一人は、世の中で起きることは理不尽なことばかりで、人生は思い通りにならないと不満を抱えている老人だ。
それまで接点がなかった二人の老人が、ある時、ひとつのバス停で出会った。
雪が舞い散る寒風の中、バス停には既に7~8人の乗客がバスを待っていた。
杖を突きながら眉間にしわを寄せた老人が、自分が乗りたいバスの最後尾が誰なのかを確認した。
杖の老人が最後尾に並んだ直後、ニコニコ笑顔の見るからに朗らかな老人が、バス待ちの列の間に入ろうとした。
杖の老人「最後尾はここだよ」
ニコニコ老人はほがらかに「いや、いや、バスの時刻表を確認するところだよ」と返答し、バスの時間を確認した後、杖老人の後ろに並んだ。
杖老人は後ろを確認すると「この時間は大体混んでいて座れることが少ない。もう少し遅い時間なら大抵空いているんだが」と後ろのニコニコ老人に話しかけた。
「詳しいですね」と朗らかに答えるニコニコ老人
杖「私は終点まで行くが、おたくはどこまで行くのかね?」
ニ「20丁目までですよ。」
杖「あの辺りには、確かラーメン屋があったね。」
二「ありますね。」
杖「最近は、バスの中でも若いもんは席も譲らない。」
ニ「そうですか。私は譲ってもらってますよ。」
杖「 自分が若いころには席を譲るのが当たり前だった。今は通信もないから学生も自分のことしか考えてない。席を譲るという意識が欠落している。」
ニ「そうですか。わたしはいつも『ここ、どうぞ』と親切にしてもらっていますよ。」
そこにバスが到着した。
待っていた人達が順番にバスに乗り込み、杖老人も続いてバスに乗り込んだ。
杖老人がバスに乗り込んだ直後のことだ。
奇跡が起こった。
それまで座席に座っていたある一人の青年が、さっと立ち上がり「おじさん、ここどうぞ」と大きな声で杖老人に声を掛けたのだ。
杖老人は「あ~」と言い、その席に座った。
昨日わたしが目撃した脚色なしの実話です。
なぜ、杖老人は「席を譲ってもらえない」のに、ニコニコ老人は「いつも席を譲ってもらえる」のか?
ここからは想像だけど、本当は杖老人もきっと何度も席を譲ってもらっていると思う。
「老人に席を譲るのは当たり前」だと思ってる杖老人。
だから「席を譲ってもらえない」ことが数回あると、世の中は「当たり前のことも出来ないやつらばかり」と解釈する。
その解釈から不満の種が増殖して、「今時の若いもんは・・」と世の中に対して文句を言う側面を見つけ続ける。
「自分は周りから親切にされない」という信念を持ち、世の中で起こることを理不尽だと感じ、不平不満の種を見つけては、文句を言い続けている。
席を譲ってもらってないんじゃなくて、老人である自分に周りの人間が席を譲るのは当たり前だと思っている。
かたや、ニコニコ老人は、小さな親切を得ることが「当たりまえ」のことではなく感謝出来ることだと知っている。
だから「席を譲ってもらう」と「ありがたい」「親切を受けた」と感謝が生まれる。感謝の種を増やしている。
「当たり前」のことではないから、譲ってもらえなくても、不満に思うことはない。
「してもらえない」にフォーカスしているか、「してくれた」にフォーカスしているか。
ただそれだけの違い。
同じ物毎をどんなフィルターを通して見るかの違いで、不満を感じるのか、感謝出来るのかという間逆の方向に進む。
今日平和に過ごせることも、決して「当たりまえ」ではない。
今日食べるものがあることも「当たりまえ」ではない。
屋根のある家に帰れて、ふかふかの布団で眠れることも「当たりまえ」ではない。
「当たりまえ」だと思った途端不満になる。
起きている現実は同じでも、解釈次第で、感謝が生まれるか、不満になるか。
ただそれだけ。
現実は、自分自身が作っているフィルターを通して解釈されている。
現実は自分自身が作っている。
解釈のフィルターを変えると「現実」が変わるよ~ん。
杖老人のフィルターが書き換わるといいな。と思った出来事でした。
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