講座を受講して学ぶ機会がたくさんあります。
今時は、オンラインでも受講できるし、後日配信された録画を視聴することもできる。
ライブには到底かなわないけどね。
それでもインターネットって、場所を選ばないから本当にありがたい。
講師の方が受講生に質問する場面ってよくあるんです。
質問に個別に答える場面とか、
もしくはグループワークでみんなで考える場面とか。
こういう時って、「正しいこたえ」を見つけようとする。
当たり前といえば「当たりまえ」のことだよね。
でも、ある時思ったのだ。
「正解」を探すことは「正しい」ことなんだろうか?って。
思えば、わたしたちが育ってきた過程において
どれだけ「正解」を求められてきたか?
授業中手を挙げて回答した答えが「正解」じゃなかった時
参観日で父兄が見守る中、周りがみんな手を挙げてる中、わからないけど恐る恐る手を挙げる。
そんな時に限って当てられたりするんだよね。
う~ん「正しい答え」がわからない。
違います!!って言われちゃう。
顔から火が出るほど「恥ずかしい~」。
とかね・・・
そんな経験の数々から「正解」を回答しないといけない。という刷り込みが出来ている。
「わからない」と恥ずかしい。
いつでも「正しい」回答をしないといけない。
みたいな・・・
この刷り込みがブロックになって、
いろんなことに挑戦したり、発言することの足止めになってるんじゃないかな?
自己肯定感を下げている要因になってるような気もする。
「わからない」→「ダメな自分」→「もっと頑張らないと認められない。」
みたいな構図。
ずっと刷り込まれてきたわけでしょ。
でも本当は「正解」を回答することが大切なこと。ではないと思ってます。
回答は正しくなくてもいいんじゃないかな。
質問された時に「何だろう?」って自分に問いかけることの方が大事だし。
仮に自分の中から出てきた答えが、講師が求めることと違っていても
「あ~。そうか~!!」という気づき
この気づきの方がよっぽど大きく自分に落とし込める。
それに、間違った時の方が、気づきが大きいんだよね。
怖がらずにとりあえずアウトプットする。
これ大事です。
間違ってても大抵の場合、傷つくこともない。
人は失敗することでしか学ばない。っていうしね。
いっぱい失敗して
いっぱい間違って
いっぱい恥ずかしい想いをする。
わたしのこれからの目標です。
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